月夜








最初にそれに気付いたのは、三日月のとてもキレイな夜だったように思う。




窓から差し込む月明かりが幻想的に部屋を夜空の色に染め上げる。
魂のみで、食べることも眠ることもなくなってしまった鉄の体を持て余しながら、
生身だった頃の習慣が身に染み付いてるのか・・・それでもベッドに体を横たえて、
僕は天井を見つめていた。
眠れはしないとは言っても、時々精神的な睡眠状態のように陥ることはある。
この夜もそんな感じで・・・体が波にさらわれるような心地よさを味わいながら、
意識が夢と現の狭間で浮き沈みを繰り返していた。


色々なことが無意味に、しかし次々と、脳裏へ浮かんでくる。
兄さんが大佐に呼ばれて、共にセントラルへと赴くことになったのは数日前。
僕は国家錬金術師ではないから、どんな用件で呼ばれたのかは知らないけれど。
「きっと大佐のことだから、意外にたいした用でもないのかもしれないな」と、
兄さんと話したことを思い出して、僕は小さく笑った。
宿泊先はいつものように手配されていて、僕らはすぐくつろぐことができた。
いつもと何も変わらない。
ただ・・・部屋の間取りの関係で、
今回は兄さんとは別々の部屋に泊まることになった。


ガタッ・・・


沈みかけていた僕の意識を呼び覚ましたのは、
廊下のほうから聞こえた物音だった。


「何だ・・・?」


起き上がり、そっと部屋の扉を開ける。
人影が目の前を静かに横切った。
こちらには気がついていないようだ。


「・・・兄さん?」


人影は紛れもなく兄さんだった。
こんな時間にどこに行くんだろう・・・、こんな風に僕に何も言わずに・・・。
何も言わず?・・・いや、僕に何か隠してるのか・・・?


この年齢にもなれば、兄弟でも話せないことの一つや二つ無いわけではない。
しかし僕らは・・・母さんを亡くしてからずっと二人きりで生きてきた。
だからこそ話せることは話すし、隠し事があっても薄々気付きもする・・・
言葉にはしなくても。
でもこんな不自然な兄さんの姿を見るのは初めてだった。
気付いた時には、部屋を出て兄さんの後を尾けていた。




国家錬金術師という仕事柄や特殊な事情などから、
いつどこで狙われているのか分からない日々。
数々の修羅場も越えてきた故、常に殺気や気配というものに敏感になっている。
そんな兄さんにしてはめずらしく、尾行する僕に微塵も気付いている様子はなかった。
油断しているというよりも・・・まるでそんなことなど頭にないかのように必死な様子で。


僅かな街灯の灯りと、月明かりに照らされた無人の夜の街をひたすら歩き続けている。
聞こえるのは風の音と、駆けるようにどこかへ向かう兄さんの足音だけ・・・。
一瞬・・・兄さんがそのまま暗闇に消えてしまうのではないかと不安になる。


「どこまで行くんだ・・・?」


思わず呟きが洩れる。
唐突に、兄さんが立ち止まった。
僕も慌てて物陰に隠れた。
様子をそっと伺う。


街灯の下・・・立ち止まる兄さんのそばにもう一人誰かが立っていた。
・・・顔がちょうど影になっていて見えない。
まさか覗き込むわけにもいかず、じれったいような気持ちで眺めていた僕の目に、
突然、信じられない光景が飛び込んできた。


兄さんが・・・その「誰か」の腕に身を投げ出したのだ。
誰よりも他者に身を委ねることを嫌う兄さんが。
誰よりも自分を戒め、誰かに甘えることなど決してない兄さんが。
その兄さんが。
「誰か」の腕に包まれ・・・僕も見たことがないような表情で、穏やかに笑っている。
なぜだろう、胸が痛んだ。
見てはいけないものを見てしまったような気がする。
立ち去ろうと踵を返そうとしたその時・・・その「誰か」が顔をあげた。
灯りがその顔を静かに、しかしはっきりと照らし出した。
・・・それは、僕のよく知る顔だった。


「・・・大佐━━・・・」




あの日どうやって宿まで戻ったのか、覚えていない。
兄さんがいつ宿に戻ってきたのかも・・・。
分かるのは、あの日から毎晩のように兄さんが部屋を抜け出すこと・・・。


兄さんはもしかしたら大佐のことを好きなのかもしれない、薄々思っていたことだけれど。
家に火を放って、全てを捨てる覚悟で故郷を出てから、
兄さんにはずっと心許せる存在がいなかったように思う。


僕には兄さんがいた。


兄さんは僕を信頼してはいるけれど、
兄さんにとって同時に僕は守らなければならない存在で。
僕は兄さんが弱音を吐いたりする姿すら見たことはなくて。


大佐は・・・兄さんの心の深い所に、ある意味で僕より近くにいるような気がする。
昔、母さんを人体練成で生き返らせようとした僕らは、それに失敗し・・・。
僕は魂のみを鎧に定着させた体に。
兄さんは右腕と左足を失った。
兄さんはその時、再起不能とすら思えるくらいボロボロに傷ついていた。


そんな兄さんに可能性を提示して、その心に再び火を灯してくれたのが他ならぬ大佐だった。
だから僕自身も、大佐に対しては言葉に表せないくらい感謝している。
禁忌を犯した僕らに、元に戻る可能性と・・・希望を与えてくれた大佐に。
だからこそ、もし兄さんが大佐を好きになってしまったのだとしたら・・・、
その気持ちも分からないでもない。


・・・でも、僕は不安だった。


もし・・・大佐と兄さんが僕の思ってる通りの関係だとして・・・、
大佐は兄さんを本当に大切にしてくれるのだろうか?
仮にも大佐と兄さんは男同士で・・・、大佐には常に女性に関する噂が付きまとっている。
僕は兄さんが決めた道なら、
それが外れている道だとしても認めていきたいと思っているけれど。
でもそれは・・・兄さんが幸せになれるなら、という大前提のもとだ。

僕には確信が持てなかった。
兄さんは大佐とのことを僕に必死で隠そうとしていたから。
言ってくれなきゃ、何も分からないじゃないか・・・。

それに・・・・・・。

幸せになれるなら応援してあげたい、という気持ちとは裏腹に・・・
あの日から僕の心には、もやもやとした灰色の感情もまた渦巻いていた。
大佐と兄さんのことを考えるだけで、心臓を鷲づかみにされるような・・・
苦しいようで切ないような・・・、そんな気持ちになるのだ。
だから、僕は兄さんに何も聞かなかった・・・聞けなかった。
何も知らないふりをしていた。
聞くのが怖かったのか・・・、兄さんから話してくれるのを待っていたのか・・・。
混乱する気持ちを整理することもできないまま、
僕は僕自身の気持ちすら量りかねていた。




そしてその状態は何ら変わることなく・・・、一週間後。




その夜は新月で、夜空に月は見えなかった。
温度すら感じない僕の体の表面を、少し開けた窓から入ってきた夜風が撫でる。
感覚などないはずなのに、無遠慮な風がひどく不快だった。


いつもの時間に、廊下から兄さんの気配を感じた。
今夜も大佐に会うのだろうか?
僕に内緒で黙って出て行って、何事も無かったような顔をして、朝僕に挨拶する兄さん。
兄さんが出て行くのを息を殺してやり過ごして、何も知らない顔をして、挨拶を返す僕。
僕はそんな兄さんと自分自身に、とても苛立っていた。


ひどく不自然な今の僕ら。
兄さんは何も感じないのか!?
思わずそう叫びたくなるくらい、僕は苛立っていて・・・、
そしてそれももう限界に近づいてきていた。
僕らはたった二人きりの兄弟じゃないか。
大佐と兄さんの間に何があった?
兄さんと大佐の間に、僕に言えないような何かがあるのか?
兄さんは・・・兄さんは・・・・・・。
この感情を何と呼ぶのか・・・。
言葉にならない思いが、焼け付くような熱さで僕の心をかけめぐっている。
足音が、僕の部屋の前を静かに通り過ぎていく。
考えるより先に、体が動いていた。


「兄さん!!」


階段を降りかけていた兄さんが振り返る。
廊下の薄暗がりではその表情まで読み取ることはできなかったけれど、
兄さんがひどく動揺しているのだけは空気で分かった。


足が竦んだ。
言葉が出ない・・・何を言えばいいのか分からなくて。
喉がカラカラに渇いているような、奇妙な感覚。
一瞬が、まるで終わることのないような永遠にも等しく感じられた。


「・・・っこ、こんな時間にどこに行くの?」


それだけ言う僕の声は震えていた。
兄さんは何も言わない。
僕は一歩、兄さんに近づいた。


「・・・兄さん?どうしたの?」
もう一歩近づいた。


「あ、アル・・・」


僕以上に動揺して口ごもる兄さんの姿に、僕は少し冷静になり・・・
同時に、とても、悲しくなった。
そんなにも、兄さんは僕に大佐とのことを隠しておきたいの?
あとずさろうとする兄さんの腕をつかんで、勢いよく引き寄せる。
突然のことにバランスを崩した体を立て直そうとした兄さんに向かって、
僕は言い放った。


「・・・行かせないよ」


「え・・・?」


呆然とする兄さんから目を逸らし、つかんだままの腕を引っ張り、
引きずるようにして部屋に連れていった。
後ろ手に扉を閉めて、鍵をかける。
立ち尽くす兄さんの目を、今度はしっかりと見据えて言い放った。


「大佐のところには、行かせない」


兄さんの目が驚愕の色に染まっていく。
視界の隅で兄さんの指先が小刻みに震えているのが見えた。


「あ・・・アル、どうして・・・」


震える兄さんの手を握る。
「この前ね、見ちゃったんだ。大佐と兄さんが・・・一緒にいるとこ・・・」
「・・・・・・」
「・・・聞いてもいいかな。・・・どうして今回、セントラルへ来ることになったの?」


ずっと聞きたくて聞けなかったこと。
この部屋に連れてこられた時点で・・・兄さんも何かしら覚悟していたのだろう・・・
そんな表情で一瞬目を逸らし、うつむいた。
そのまま黙り込む。


「答えてよ・・・兄さん・・・」
「答えてくれなきゃ、この部屋から出さないよ」


ひどく理不尽なことを言っているであろう僕を、
兄さんはどこか傷ついたような目で見つめた。


・・・悲しかった。


でももう、感情の奔流は・・・自分ではどうにもならないくらい溢れだしてきていて・・・、
止まらなくて。
僕はどうしようもなく、混乱していた。
兄さんが口を開く。


「・・・嘘、ついても・・・多分お前には分かっちゃうよな・・・」


それは、どこか自分に言い聞かせるような、途切れ途切れの言葉だった。


「大佐に・・・俺のことが好き、って・・・。この前・・・そう言われたんだ・・・」
「・・・それで兄さんは何て・・・?」
「俺は・・・。俺も・・・大佐が・・・」
そう言った兄さんは、拗ねたような表情で、再びうつむいた。


予想していた言葉だった。
僕はこの答えを分かっていたはずだ。
だけど、どうして?
心に穴が開いてしまったような、深い喪失感を感じる。
それは、歩いていたら突然目の前の地面が消えてしまったかのような・・・、
そんな気持ちに似ていた。
そんな僕の腕に、兄さんがそっとふれた。


「大佐が・・・待ってるんだ。・・・通してくれ・・・」


僕は無言で何度もかぶりを振った。
兄さんの気持ちは分かったのに、心のもやもやは一層大きくなって、僕を苦しめる。
どこにも行ってほしくなかった。
まるで幼い子どもみたいに、兄さんにすがらずにはいられなかった。


「行かないで、兄さん・・・。・・・力ずくでも、行かせない・・・」


こんな僕を前に、兄さんは困ったような顔をしていた。
大佐とのことを知られたことよりも、或いはこんな僕の姿に動揺しているのかもしれない。


「アル・・・」


僕がもし肉体のある姿だったなら、きっと号泣しているのだと思う。
「大佐が・・・本気で兄さんのことを好きだとでも?
大佐がたくさんの女性と仲良くしているのは・・・兄さんだって、知ってるはずじゃないか!」
感情に任せて、言葉を迸らせる。


言っちゃダメだ、これ以上言ったら兄さんを傷つけてしまう・・・。
そう思っても、僕の意思に反して、言葉は留まることなく発せられた。


「・・・それに・・・それに・・・、どうして僕に隠してたんだ!
僕に言えないことでも大佐としてたのか・・・?
それとも僕より・・・大佐のことが大切だとでも?」
「アル・・・?お前、どうしたんだよ・・・」
言いかける兄さんの言葉を強引に遮って僕は続けた。


「ねぇ・・・兄さん・・・。僕と、大佐と、どっちが大切なの・・・?」


まったく支離滅裂なことを言っているのは分かっていた。
けれど、言葉が勝手に飛び出してきてしまう・・・、こんなのは本当に初めてだった。
感情を吐き出している内に、ようやく少しだけ気持ちが落ち着いてくる。
兄さんを見ると、さっきよりもずっとずっと悲しそうな顔をしていた。
その表情で、僕は自分がいかにひどい言葉を投げかけたのか、認識した。
水が引くように、興奮がさめていく。
兄さんが口を開いた。


「アルは・・・俺が大佐と一緒にいるのが嫌か?」
僕は、小さく首を横に振った。


「・・・アルが嫌なら、大佐にはもう会わない」
僕は、今度は大きく首を横に振った。


「どっちか選べ、って言うなら・・・。俺は迷わずアルをとるよ」
兄さんが腕を伸ばして僕の冷たい鉄の体を抱きしめた。
穏やかな顔をしていた。


「内緒にしててごめんな。・・・アルに余計な心配かけたくなかったんだ・・・。」
ごめんな、ごめんな・・・そう繰り返す優しい声。
その声で、ようやく僕は自分自身の激しい感情の名前を知った。


僕は、間違ってた。


兄さんはいつだって僕のために何だってしてくれたじゃないか。
信じきれなくて裏切ったのは兄さんの方じゃない・・・、僕だ。


「僕・・・大佐に、嫉妬してた・・・」
そう呟くと、兄さんはただ一言「うん」と頷いた。


「兄さんが、いなくなっちゃうと思ったんだ・・・。ごめんなさい・・・」


「お前をおいて、いなくなるわけないだろ。ついでに・・・
大佐と俺は何もやましいことしてないぞ」


優しく笑いながら、兄さんが僕の背中を叩く。
僕は目を伏せて、一回大きく深呼吸した。


「・・・兄さん、大佐の所へ行って」


一瞬兄さんが言葉につまる。
「待ってるんでしょう?僕はもういいから・・・行って」
「でも・・・」
「お願い兄さん。引き止めといておかしいかもしれないけど・・・
僕は兄さんに幸せになってもらいたいんだ・・・。
僕にはできないけれど・・・大佐なら、それができるんじゃないかと思う・・・」
「アル・・・」
ほんと自分で引き止めたくせにめちゃくちゃなこと言ってるな、と
我ながら情けなくもなる。
けれど、もう僕がしなければならないことは分かる気がする。
兄さんの体を無理矢理離し、扉まで押しやる。
「お・・・おい・・・」
「行かないと殴るよ」
複雑な表情をしてなかなか部屋を出ようとしない兄さんを、試しに脅してみた。
「いいのか?」
真剣な表情で返してくる、兄さん。
意外と真面目な兄の、こんな一面が僕は好きなのだ・・・、改めて思う。
「しつこいよ。ほら、早く!」
背中を押す。
兄さんが振り返って、ただ一言


「ありがとう」
と微笑んで、僕も一言


「・・・うん」
と呟いて笑った。




兄さんの姿が見えなくなると、僕はベッドに沈むように横たわった。
そんなに高くはない天井を、ぼんやりと見つめる。


さっきまでの感情の激流が、嘘のように消えて…
今はまるで夜の海のような穏やかな気分だった。
兄さんが大佐に会うのだと分かっていても、もうそれほど苦しくはなかった。


僕は「兄さんが幸せであれば」だとかキレイ事言ってただけで…、
結局大佐に兄さんをとられるのが耐えられなかっただけなんだ。
そしてそれにすら気づけなくて。


大佐とのことを兄さんが隠していた理由も、今なら分かる気がする。
兄さん自身も…大佐との関係に少なからず悩んでいたんだ。
・・・だからこそ、僕にも話せないでいた。
その気持ちにどうして気づいてあげられなかったのか。
僕は自分の感情にばかり手一杯で…。
情けない。
いつまでも僕は兄さんに甘えてばかりだ。
兄さんにだって誰かに甘える権利も…愛される権利もある。
そしてそれは兄さんが選ぶことで、僕には見守ることしかできないんだ。
大佐は確かにたくさんの女性と親しくしているかもしれないけれど、
それでも兄さんを一番に大切に思ってくれているのかもしれない。
少なくとも、さっき見た兄さんの目は、大佐のことを信じている目だった。
僕は腕を伸ばし、無機質な手のひらをじっと見つめた。


僕は兄さんのために、何ができる?
兄さんが兄さんだけの幸せを見つけたなら…僕はそれを、何にかえても守りたいと思う。
けれどもし、大佐が兄さんを裏切るようなことがあれば…。

「…許さない」

ぎゅっと強く手を握る。
兄さんが大佐を好きなのと同じように、僕は兄さんが好きなんだ。
だからもし兄さんを傷つけたなら、それがたとえ大佐だろうと、絶対許しはしない。


そう心に決めて、月明かりのささない窓を見る。
兄さんはもう大佐に会えただろうか。
僕を抱きしめて笑った、兄さんの穏やかで優しい顔を思い出す。
僕には兄さんを抱きしめて、暖めてあげられる体もないけれど。


決して楽ではない道を選んだ兄さんと、兄さんを暖めてくれる人の幸せを・・・・・・僕は、祈ろうと思う。