薄氷の夜に








細い細い三日月の夜だった。




12月にしてはよく晴れたその日の夜。


窓から差し込む光の粒を、
エドは眠れぬ眼で見つめていた。

先週までは外に出るのが嫌になるくらいの
寒さと、雪だったのに。

光の粒が体を淡く優しく包み込む感覚を味わいながら、
もう何度目か分からない寝返りをうった。



胸の奥がザワザワする。





こんな夜は苦手だった。
そう、昔から。



幼い頃、妙に細い月が、
夜空で嘲う悪魔の口に見えて。
小さかった心にそれはとても大きな恐怖だったから。


アルには内緒で、
こっそりと母さんのベッドにもぐり込んだ。

『あらあら、エド・・・またなの?』

そう言っていつも母さんは笑って・・・、
冷たく冷えた手を温めるように、
安心させるように・・・優しく握っていてくれた。





その温もりを思い出すかのように、
エドは自分の手を握りしめた。

「つめて・・・」

機械鎧の右手が、冷気で鈍い音をたてる。
母の教えてくれた温もりは、この手にない。

ぎゅっと瞼を伏せて、
そろそろと目を開けても。
月は黙って、笑っている。



「・・・母さん・・・・・・」










白銀の月明かりが、
雪解けの町並みを照らす。

レンガが敷き詰められた整備された歩道に、
氷が薄く張っている。
一歩歩く毎に、それはぱりんぱりん・・・と、
脆く澄んだ音を立てた。

吐く息が真っ白だ。
震えそうなくらい寒かったけれど、
あえてゆっくりと歩いた。
どうせ宿に戻っても、今夜は眠れる気がしない。



ぱり・・・ぱりん・・・。

ぱり・・・。


何て悲しい音なのだろう。

それは無残に割れていく薄氷の、
悲鳴にも聞こえた。
その冷たさで何もかも跳ね除けてしまいそうに見えるのに。
こんなにも脆い。



それ以上聞きたくなくなって、
エドはふいに立ち止まった。

足元を見下ろす。


割れた氷と、割れてない氷。


どちらもとてもキレイだけれど。
どちらのほうが氷にとっては幸せなのだろう。

そんなあてどもない考えをめぐらせて、
エドは泣き笑いのような表情を浮かべた。







月は怖くないわ、エド。

冷たい氷も、冷たい雨も、冷たい風も。

そう感じるのは上辺だけで、
本当はみんなあなたを包んでくれているのよ。



子守唄のようにそう言って、
母は柔らかく微笑んでいた。






ゆっくりとエドは両手で顔を覆った。
うなだれる様に、のろのろとその場にしゃがみ込む。

今は思い出したくなかった。
とうにこの手を離れてしまったものを思い出したら、
目の前の氷のように、
心が音を立てて割れてしまうような気がした。

強く、強く目を閉じた。
何も見なくてすむように。

強く、頑なに目を伏せ続けた。
何分も、何十分も。


その声が、聞こえるまでは。






「・・・鋼の?」



ぱりり・・・という音が、目の前で立ち止まる。


固く閉じた瞼をゆっくりこじ開けて、
声の主が誰なのかを考えるより先に、
エドは反射的に頭を上げた。

見慣れた群青の軍服に、黒いコート。
黒い軍靴に、白い手袋。

夜空のような深く黒い眼差しで、
見つめてくる。



「・・・大佐」


いつもなら、こんな風に弱っている自分の姿を見られるのは、
とても耐えられないと思う。
弱みを見せたくないという思いは、
ロイに対してだけでなく・・・ずっとあったから。
でも今夜は、そんな矜持さえ凍ってしまったようだ。

エドは力なく笑った。

「こんな時間に何してんの、大佐?」

きっと、ひどい顔してんだろなー、俺。
そんなことを考えながら唇の端を無理に上げて、
ようやく笑みの表情をつくる。

ロイがふーっとため息を吐いた。
吐息が、白く白く、霞のように空気を曇らせる。


「それはこちらのセリフだろう」
そう言いながら腕を差し伸べた。
「こんな時間に未成年が何をしているのかね」


差し出された手をつかもうとして・・・やめた。

「大佐こそ、いい大人がこんな時間に外出?」


ぷいっと横を向く。
視界に枝だけになった街路樹が飛び込んできた。
枝から、パラパラと粉雪が落ちる。


「私は仕事帰りだ。この時期は何かと忙しいのでな」
「ふーん」
「ところでだ。せっかくこの私が手を差し出しているというのに、無視かね?」
女性だったら誰でも飛びついてくるんだがなぁ。

ぶつぶつとぼやきながらも、
ロイは腕をひかなかった。


「・・・・・・」

「・・・・・・・・・」


ロイは腕を差し伸べたまま、
エドはそっぽを向いたまま、
しばらくどちらも何も言わなかった。





「鋼の」
「・・・今度は何だよ」
「寒くないか?」
「寒いよ、当たり前だろ」


思いの外優しいロイの声に、
心がくじけそうになる。
だから、わざとぶっきらぼうに答えた。

誰にでもすがってしまいそうな、
そんな痛みが胸をしくしく苛んでいた。
一秒ごとに、その痛みは強くなる。


もう、何も言うな。
でないと俺は、大佐にすがってしまう。




「・・・何か、あったのか」

質問ではなかった。

言外に、そうなんだなと確信している。
そんな響きだった。

「・・・・・・何も、ないよ」
深夜に道端でしゃがみこんでおいて
何もないとは、我ながら大逸れていると思ったけど。
外に言葉が見つからなかった。


「泣きそうじゃないか」
「誰がだよ」
「・・・・・・」






「エド」





ふいに名前を呼ばれる。
『鋼の』でも『君』でも『お前』でもなく。



たった二文字のその音が、
心の琴線をかき鳴らした。



「・・・大佐」

「何かね」


「・・・・・・・・・」


目の前に差し出されたままの腕。

無性にその腕にしがみつきたくなった。
そうすれば、きっと弱音を吐いてしまうだろうけど。





ふと。
ふと、ロイを見上げた。



どうして強引に腕をひこうとしないのだろう。
そうした方が手っ取り早いだろうに。

ロイの闇色の眼差しをじっと見つめた。
何て柔らかい、ビロードの漆黒なんだろう。


ああ、そういうことなのか。
俺が自分から望んで動かなければ、
意味がないということか。


「大佐は、優しいね」


一瞬驚いたように目を見張って、
ロイは微かに、どこか不敵に笑った。






しがみついた腕の温もりが、
氷を溶かす。

心の深くの
もっと深いところまで。

氷は、溶かされていく。






ロイはずっと、
震えるエドの肩を支えていた。

「・・・こっち、見んなよ」

ようやくそれだけ呟いたエドのそばで、
彼は黙って月を見ていた。


ただ、黙って。







「何も聞かないのかよ」
「聞いて欲しいのか?」
「・・・・・・」
「そのうち、話す」
「ああ」


ロイがまた優しく笑って。
エドはまた、泣きそうになった。






「そういえば、鋼の。知っているかね」
「・・・ん?」
「異国では今日を聖夜と呼んで、祝うらしい」
「聖夜?」
「何でも大切な人に贈り物をしたり、木に飾り付けをしたりして、
その日に現れたとされる神を祝う行事らしい」

異国にはいろんな習わしがあるんだなぁ。
ふと頬に冷たさを感じて見上げると、
粉雪が静かに舞い降りてきていた。



「そこでだ」

突然ロイが立ち止まる。
エドの返事を待たず続ける。
「これをやろう」
いつの間にやらはずしていた手袋を胸に押し付けられた。

「は・・・?」

唖然とするエドを無視して、
「鋼のの手は冷たいから、きっとこれは役に立つ」
と勝手に納得して、エドの頭をポンポンと叩いた。


「まぁ・・・あれだ」
「それをつけてたら悪夢も見なくなるだろうし、安眠確実だ」

「・・・この発火布、そんなオプションまでついてるのか?」
軽く指先を擦って火花を散らしてみた。
キレイだった。


「・・・私だと思え」

「?」
「その発火布は私と同等だ」


「鋼のが困ったなら、その時どこにいても見つけられるように」
「夢の中でも助けに行けるように」



「それを、君にやろう」






雪がふわふわと舞うように降り積もる。
歩いても、ぱりんぱりんという音はしなくなった。


たださくさくと、優しい音がする。



「・・・仕事帰りというのは嘘だ」
「え・・・?」
ロイが吐き出す白い息を眺めながら、
エドは戸惑ったように瞬きをした。
微かに唇に笑みを浮かべて、
彼はエドを見つめた。



「君が呼んでいるような気がしたんだ」





月も雪も雨も風も、暗い闇も。
誰もあなたを追い詰めたりしないわ。

すべて、あらゆるものは優しさに満ちているの。
そうでしょう、エド。






発火布の両手を握りあわせる。

暖かかった。
母の温もりに似ている気がする。


優しい、優しい暖かさだった。





三日月も、今は怖くない。

眠れない夜。

雨の降る夜。

寒い夜。





それでも。
暖かいと思えるから。