ずっと、嫌いだった。



痛みも悲しみも、
何もかも知らないような顔をして。
いつだって不敵に笑っている。


色んなものをその手で傷つけているはずなのに。
その手は人の血でまみれているはずなのに。


葛藤も苦しみも、どこにも見えなくて。



確かに手を差し伸べてくれたはずの人なのに。
『希望』を示してくれたのは確かに彼だったはずなのに。

影の見えない彼を見る度、
不信にも近い感情で胸がいっぱいになった。



初めて会った時。
信頼に足る人間だと思った。


だから。
だからこそ。


気づくと、戸惑いと苛立ちばかりがつのっていた。









エドは手に持った書類を長い間難しい顔で見つめていた。
どれだけ見つめても変わるわけはないのに、
同じ行、同じ文字だけをただひたすら
食い入るように見つめ続けている。


そこに並ぶ文字・・・。
「・・・ロイ・マスタング、大佐」
ぽそっと嫌そうに呟く。


「?兄さん、大佐がどうかした?」
エドが一層苦虫を噛み潰したような顔になる。
「どうもこうもねえよー」
そう言って書類を弟・・・アルの鎧の腕に押し付けた。
アルは黙って、書類に目を落とす。
「・・・国家錬金術師の・・・査定書類だね。で、書類の提出先が大佐のところ・・・」
「あぁ、そうさ。俺はこれから書類を大佐のところに持っていかなきゃいけない」
「・・・嫌なの、兄さん?」
アルが書類から顔をあげ、大きな体に似合わず小首を傾げた。
エドはますます難しい顔になっている。


「俺、苦手なんだよ、あの人」
何考えてるか、よく分かんね。
ぼやきながら機械鎧の右手で、琥珀に透ける前髪をかきあげた。


アルは困ったように兄を見つめている。
「・・・まさか・・・、行かないなんて言わないよね」
何ともうらめしそうな顔でアルを見て、エドは立ち上がった。
「・・・行くさ。できるなら行きたくないけど」
ブツブツとこぼしながら書類を乱暴に鞄に詰め込み、
愛用のコートを肩にかけて、彼は弟の肩にふれた。
「行ってくるな」
「うん。気をつけて」


エドはひらひらと手を振って、
非常に気が重そうな様子で部屋を出て行った。








ロイの執務室。
この部屋の前に立つとやたら圧迫感を感じる。


上司などとは思っていないが、
これがやはり地位ある者の威圧感なのだろうか。
一瞬躊躇して、それから扉を二回叩いた。


「・・・入りたまえ」
入室を促す声とほぼ同時にドアノブに手をかける。
開いたドアの隙間から、
正面に座って机上の書類にサインをするロイの姿が目に入った。







「・・・はい。これとこれが今年の研究データ」
「うむ」
バサバサと無造作に紙の束を取り出し、
ロイの机に積んでいく。
愛想のかけらもない。


「・・・じゃっ、俺帰るから!」
積むだけ積んで踵を返す。


ロイが眉間に皺を寄せた。
「待ちたまえ」


今度はエドの眉間に皺が寄る。
「・・・まだ何かあったっけ?」
振り向いたエドの顔をロイは射るようにじっと見つめた。
居心地の悪さに、思わずエドは目を逸らす。


「鋼の。私は君に嫌われているのかね」
「・・・どうして」
「どうしても何も。君の態度がそう言っている」


部屋の中央、微妙な位置に立ち尽くしたまま、
エドは視線を泳がせた。
「そこに座りなさい」
椅子を示され、エドは諦めたように深いため息をついた。









人を椅子に座らせておきながら、ロイは再び仕事を再開させた。



俺に話させようとしているのだ。
それが分かって、また憮然とした表情になる。


ふと、羽ペンでサラサラと書類にサインをする
ロイの手にはめられた白い手袋を見つめた。
発火布。
手の甲部分に当たる部分には、錬成陣が朱に描かれている。


「大佐」
「何かね」
手を休めることなく、ロイは次を促した。



エドは少し躊躇ってから、口を開いた。
「大佐は今までに何人の人間を手にかけた?」


ピタと一瞬手の動きが止まり、一呼吸おいてまた動き出した。
「さぁ・・・。東部の内乱の時には何十人・何百人と焼いただろうね」
思わず耳を覆いたくなるようなことを、ロイはサラリと口にする。


エドの顔が険しくなる。


「どうして、そんなにたくさんの人間を?」
「・・・命令だったからさ。我々は軍属だ。命令に逆らう事は許されん」


「・・・命令だから。多くの人を平気で殺めたのか」
苛ついたようにエドは膝の上で指を小刻みに動かした。


ロイが羽ペンを机に無造作に置き、ようやく顔をあげた。
組んだ両手の上に顎を乗せる。


「私にも為したいことがあるからね、君と同じように」
意味ありげな眼差しで、エドの右手左足を見つめた。
そこは過去の人体錬成という過ちによる代価のため、
機械鎧の義手義足となっていた。


「あんたは出世の為、だろ」

「君と、何か違うのかね」


ギリ・・・とエドが奥歯を噛みしめた。
「母を錬成しようとした君と、私がしたことに大差あるかね」
「君が思う以上に、私の望みは深いということだよ」


「・・・・・・」
「納得できないようだね」


困ったように呟く言葉に、
「できるかよ」
即答する。


ロイは静かに目を細めた。








東部の内乱。
ひどい戦いだった。



賢者の石によって強化された錬金術と、
それを行使する術師の手によって、
何人もの人間が、無残に苦しみながら死んでいく。


大人も子どもも、女性も男性も、若者も老人も。
納得できかねる大義の前に、多くの人が倒れていった。


賢者の石によって増幅された力は、
焔の渦を龍のように変化させ、
火花は巨大な火柱となって、数多の人間を殺した。


相手の抵抗など、蚊の声にも等しかった。


痛みを感じる暇などなかった。
ただ命令されるがまま、
目の前の人間を焼いた。



武器も持たない者達を。



耐えられず、何人もの仲間が戦場を去った。
去る者を誰も、止めはしなかった。









ロイの話に、エドは大きく目を見開いた。
東部の内乱は知っていても、
具体的な話を耳にするのは初めてだった。



「・・・地獄さ」
ロイは憎憎しげに舌打ちして、自嘲気味に吐き捨てた。
「何も考えず、手をくだすことしかできなかったよ」


「大佐・・・どうして戦場を去らなかった」
強く言ったつもりなのに、
意に反してその声はとても弱々しい。


目線を一瞬上げて、ロイは発火布の手の甲を見つめた。
「・・・人間を一度手にかけてしまったからこそ、途中で去ることなどできなかった。
命令を遂行しているだけだ、と。そう思って命令を実行し続けることでしか
耳にこびりついた断末魔の叫びを拭うことができなかった」
ふーっと息を吐いて、今度はしっかりとエドを見つめた。



「鋼の。君ならどうするかね」
誰かの命を犠牲にすれば弟が元の体に戻れる。
それも、他者を犠牲にしても構わないという理由も存在するとして。
もしそう言われたら、君ならどうするかね。



ガツッと頭を殴られたような気分だった。
俺なら、どうするだろう。


「・・・・・・俺は・・・」
声が震えた。


体験したことのない東部の内乱の凄惨な光景が、
瞼に浮かび上がった。


「俺は・・・そんなこと・・・っ!」


そんなことしない。
そう言いきれるだろうか。


たとえ弟がそれを望まなくとも、
俺がそれをしないと言いきれるだろうか。



もしも。


もしも。
無邪気に笑い合えたあの日々がこの手に戻るのなら。









「鋼の」
ロイの声に我に返って顔をあげる。
「君に、そんな顔をさせたかったわけじゃない」
そう言われて、自らの頬が濡れているのに気づく。



「君と一緒さ」
ふいにポツリとロイが呟いた。
「え・・・?」



「後悔だけじゃ、前には進めなかった」


自らに語りかけるように、ゆっくりと。
とても穏やかで、切ない表情だった。
一呼吸間をおいて続ける。



「だから私は・・・大総統になって軍事の全権を手に入れようと決めた」



「もう誰も、この重さを背負う事のないように」
もちろん・・・鋼の。
君にもな。




それだけ言って、ロイは目を伏せた。










「大佐なんか、嫌いだ」




頭を抱えて、ようやくそれだけを言う。
「そうか」
「・・・嫌いだ」



何故、嫌いなのか。


手を染めた血の量だと思っていた。
その血で溺れてしまいそうな程に、
人を殺めたくせに。
それでも笑うあんたが嫌なのだと。



「嫌いだよ」


俺達はきっと似すぎている。
紅い紅い色に引きずり込まれてしまわないよう、
平気なふりをして、
でもいつだってもがいてる。



「嫌い」


こんなにも弱いくせに。


こんなにも怯えてるくせに。


なのに、いつも強がって。


為したいことの重さを知っているのに、
それが見えない不器用さ。


「・・・大嫌い」
「ああ」


でももう、見えてしまった。
微笑みの裏の真実が。


エドはゆっくりとロイに近づいて、
その手を握った。



「バカヤロ・・・」
そんな顔で笑うなよ。



この紅はきっと拭えない。


でも孤独じゃないなら、
まだ紅の深くに
沈まずにいられるのかもしれない。












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