水泡








「たった一人の女の子さえ助けてやれない。」
「ちっぽけな人間なんだよ・・・!」



そう叫んだ彼の声が耳から離れなかった。







綴命の錬金術師ショウ・タッカー。
タッカーが自らの娘ニーナを合成獣に変えてしまったのを、
それを止めることもできなかったことに。
彼は後悔に潰されんばかりに、
打ちひしがれていた。




悔やんだのは自らの非力さなのか。



まるで自らを呪うように、
嘆いていた。






そして私は。
彼ほどに絶望しない自分に愕然としていた



こんなにも私は、
失くすことに慣れてしまっていたのか。









いつだったろう。
彼が初めて私に食って掛かってきた時。



先の内乱の話をした時だったか。


真っ直ぐな彼にしてみれば、
私が今まで行ってきたことが
到底看過できなかったのだろう。

刺すように、真摯な言葉をぶつけてきた。




私はどうあろうと私自身の後悔など、
彼に語るつもりなどなかったのに。



彼があまりに真っ直ぐな目をするから。


考えるより先に、言葉が口を突いていた。



そうして。
直前まで怒っていた君が、
見ているこちらが泣きたくなるような表情で、
私の手を握った。
手袋越しに伝わる君の体温から、
君の心が流れ込んでくる。



不思議だった。
他人のためにこうも胸を痛める君が。


そんな君に。
知らず感じていた深層の罪の痛みが
包まれるように和らいだような気がした。





そして、守れるならこの目を守りたいと。
本気でそう思った。
軍に入ってから、あんな目に出会うことはなかったから。





失うことにも、傷つけることにも慣れてしまったはずの心なのに。
守りたい、と。
この目を曇らせないでほしいと。
笑っていてほしいと。
初めて。
初めて本気でそう思えた。











「もうこんな時間か・・・」
ロイは壁にかけた時計を横目で確認し立ち上がった。
執務机の上を軽く片付けて部屋を後にする。




外は土砂降りの雨だった。


司令部の玄関で空を仰ぎ、
重いため息を吐く。




エドはどうしているだろうか。
タッカーの娘のことをひどく気に病んでいた。




憂鬱な気分と同じ、
空は絶望的な色だった。











自宅へ向かう車の中で、
ロイは滲む景色を眺めていた。



こんな日は昔のことを思い出す。
ズキ・・・と胸が痛むのを覚えながら、
ロイは目を細めた。



雨はますます強く、窓を打った。










車を降り、雨を避けながら
玄関までの短い距離を急ぐ。



靴に滲む雨水を不快に思いながら
自然と俯けていた顔をあげると、
門扉の傍に誰かが立っているのに気がついた。





「鋼の・・・」




そこで雨水を吸うだけ吸って立ち尽くしていたのは、
先ほどまで思考の端に上らせていた存在。



琥珀色の三つ編みがほどけて頬にはりつき、
いつも健康的な彼の顔は、
今は寒さ故か真っ青になっていた。






ロイの声に、エドは顔をあげた。
唇が震えている。



「た・・・いさ・・・」



ロイは着ていた外套をエドの頭からかけた。
「どうしたんだね。君らしくないな・・・」



呟くように言って、家に入るよう促す。
しかしエドは弱々しいながらも、
ハッキリと首を振った。




「だが、こんなところにいたら風邪をひくだろう。
話は中で聞くから、来なさい」



言い含めるように説得するも、
エドは頑なに首を振り続ける。



まるで幼い子どもが駄々をこねるように。




こんな彼を見るのは初めてだった。
躊躇いながらその手を握ると、
氷のように冷たい。



「鋼の」


諭すように声をかけると、
彼は追い詰められたような表情でロイを見た。



エドの頬を涙のように幾筋もの雨が伝う。
それが本当に雨だけなのかは、
分からないけれど。



「・・・守れなかった・・・!」


泣きそうな顔で、声で。
ようやくそれだけを吐くように呟く。



「タッカーの娘のことか」


確認するように言うと、
エドの顔が鋭い痛みにたえるように歪んだ。





普段はまるでその二つ名が表すように、
鋼のような強さなのに。



本当は。
こんなにも、脆い。





「・・・鋼の?」


ふいに彼の体がグラリと傾いだ。
倒れ掛かってくる体を慌てて抱きとめる。




「まったく・・・だからあれだけ風邪をひくと・・・」


筋肉質だけど、華奢な体。
そっと額に触れる。
体の冷たさに反比例するように、そこは驚くほど熱かった。
ゆっくりと抱き上げる。



「軽いな・・・」


そう小さく呟いて、ロイは玄関の扉を開けた。










雨で濡れたエドの服を着替えさせ、
体を拭い、ベッドに横たえた。
熱のせいなのか、その頬は上気している。




薄く開いて吐息を漏らす唇を
指先でなぞった。




「まったく・・・無理ばかりする・・・」



ベッド脇の椅子に腰掛け、
ロイは目を伏せた。











一面、ブルーがひろがっている。



どこまでも。
どこまでも。



ただ母の腕に包まれるような優しさで
体は水に抱かれている。



不安定な浮遊感と、
そのまま溶けだしていきそうな安心感。



コポ・・・。

コポコポ・・・。


顔の脇を大小の気泡が
くすぐるように通り抜ける。



コポ・・・ッ・・・。


目から耳から口から鼻から、
静かに静かに水が浸入してくる。



じわりじわりと、
より深くに沈んでいく。



光が届かない深くに。



沈んでいく。



水が僅かに残る意識にまで
手を伸ばしてきて。



コポ・・・。


口から、最後の吐息が零れ落ちて
無数の泡が生まれた。






闇だ。


体を包むのはもうあのブルーではなく。


朱色の闇だ。


もうすぐ。
もうすぐ何も、見えなくなる。











「目が覚めたか」



ぼやけた視界のまま、
エドは反射的に声のした方に顔を向けた。
軍服姿のまま椅子に座るロイと、
見慣れぬ部屋が視界に入る。



「・・・ここは・・・?」


呟いた声とともに、
徐々に・・・だがしっかりと、意識がハッキリしてくる。
頭を軽く振って、エドは腕に力を入れた。



ロイの手が、起き上がろうとするエドの肩を押しとどめる。
「まだ横になっていなさい。」
「・・・でも」
「私のことは気にしなくていい。・・・何か私に話があるのだろう?」



目を微かに見開いて、エドは視線を彷徨わせた。
真剣に自分をみつめるロイの眼差しに戸惑うように。

そうして、言葉を選ぶように、伝えたい何かをさがすように、
指を体の前で何度も組み直した。
何度も言葉を発しかけてはやめる。



困惑したような顔でロイを見ても、
彼は静かに沈黙を守った。
エドが語りだすのを、黙って根気よく待った。



エドが何度目かのため息を吐く。



「・・・ごめん。迷惑かけるつもりじゃなかったんだ・・・」

そんな謝罪をしたかったわけではないのに、
思いとは裏腹に言葉が口をつく。



「・・・構わない。頼ってもらえて嬉しいよ」
ロイが微かに笑った。
いつもと雰囲気の違う様子に困惑したような顔で、
エドは瞬きを繰り返した。
そうして決心したように言葉を紡ぎだす。




「・・・ニーナのこと・・・タッカーのこと・・・。考えたんだ・・・。
考えて考えて・・・でも答えが出ない・・・」
「どうすればいいのか・・・。タッカーの言った通り、
母さんを錬成しようとした俺に、タッカーを責める資格はないんじゃないか、って」



「・・・・・・俺がタッカーを責めずにいられないのは、
タッカーの姿に俺自身が見えたからじゃないかって・・・」



一気にそこまで言って、エドは両手で顔を覆った。
何度か深く呼吸して、また話し始める。




「結局、俺とタッカーは何も変わらないんだよな・・・。
一番大切なはずの存在を、錬金術で歪めてしまった・・・」



指先がカタカタと小刻みに震えた。
何に対する恐怖にだろうか。






ロイは黙ってエドを見つめている。
ふと、目を眇める。



「鋼の」
それは語りかけるというよりも、
呟きに近かった。






「・・・すまなかった」


「・・・え・・・?」


発火布をはずした指先が、
エドの額に触れ、優しく前髪をかきあげる。
大きな手。
その暖かさに、エドは少し安堵する。




「タッカーを君に紹介したのは私だ」

「君の助けになりたかったのだけれど・・・、
結果的に、君を傷つけることになってしまったね・・・」





そうして初めてエドは、
ロイがとても困った顔をしているのに気がついた。
いつも自信たっぷりの顔をしているくせに。
こんな顔をされてしまったら、
どう接していいのか分からなくなる。



「・・・君が求めている答えは、
君自身にしか見つけられないものだ」


「だが、あえて言うならば」




「君とタッカーは全く違う」

「・・・そう私は思うがね」





エドが顔を歪めて、唇を噛んだ。
琥珀の瞳が、
微かに揺れていた。











知っている。


エドが求めているものを、
私は知っている。




彼がほしいのは、
赦しの言葉などではない。


気休めの、
なぐさめなどでもない。



責めたてる言葉でもない。




彼の心が精一杯、
叫んでいるのが聞こえる。



自らが流した朱と、
自らのせいで流れた朱とに、
沈んで、
沈んで、
溺れながら。



両手を必死で伸ばしている。



知っている。
私は知っている。



君が望むものを。


君が渇望するものを。










「・・・大佐・・・っ・・・!」



横たわる体を突然強引に抱き寄せられ、
エドは思わず声をあげた。
首筋にかかる吐息に、動揺する。




「鋼の」
「な・・・、なんだよ・・・!」
うろたえて声が裏返る。
心臓がその鼓動を速くする。



そんなエドと裏腹に、
ロイは耳元で優しく、あやす様に囁いた。




「大丈夫だ」



ただ一言。





もがいていたエドの体の動きが、
ゆっくりと止まる。


それから、左右に何度も首を振った。
ささやかな抵抗をするように




「大丈夫」



もう一度、呟く。



戸惑うように表情を歪めて、
エドは抱きしめてくる肩に、額を強く押しつけた。











室内に静寂が訪れる。


外の雨音だけが、
鼓膜を叩き続けていた。











心は何を欲しているのだろう。


赦しが欲しいのか、
断罪がほしいのか・・・。
分からないまま、
気づいたらここにいた。




この心は、
何を求めていたのだろう。




分からない・・・。


分からないけれど。



大佐の腕がとても暖かくて。
やさしくて。




何も、考えられなくなる。









「今は、眠りなさい」


子守唄のように、
低く耳に心地良い声で。
ロイが囁く。



エドは濡れた睫毛を
ゆっくりと伏せた。



意識が再び眠りに沈んでいく間際、
ロイの声がもう一度、囁いた。






「大丈夫」

「私はずっとここにいる」








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