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痛みはいつも傍にあった。


何もないように見せるその傍で
傷はじくじくと膿んでいた。



治りかけて瘡蓋(かさぶた)ができるより先に、
新たな痛みがそこを抉る。





痛い。


痛いんだ。


この痛みさえなければ、
もっと楽に生きられるのに。





そう思う心がまた、
新たな傷を生む。




痛い、痛い、痛い、痛い。



この痛みは、
この心の全てを奪っていくつもりなのではないか。








それならば、
いっそのこと。



痛みなどなければいい。


痛みなど、
知らなければいい。



自らの心に蓋をして、
傷など見なければいい。



そうして、
痛みなど忘れてしまえば良いのだ。







それでも傷は、消えなくとも。












「雨、やまないね」


窓の縁に指をかけ、
ガラス越しに外を覗き込むようにしながら
エドは独り言のように小さく呟いた。
クローゼットを開けて着替えを取り出していたロイが、
その言葉に振り向いて微かに笑った。



「そうだね。予報によると、もうしばらく降るそうだよ」

「・・・そうか」


エドの指が、無意識に窓枠をなぞる。
吐息が白く、窓ガラスを曇らせた。



そんな後ろ姿を、
ロイはしばらく黙って見つめていた。
外の明るさが、
エドの輪郭を霞ませる。

そのまま、霧のように、流砂のように、
消えてしまいそうな淡さがその体を包んでいる。



「鋼の」


そのまま黙っていたなら、
本当に彼が消えてしまうような気がした。
思わず口を突いた言葉に、
発したはずの彼自身が驚いて、
確かめるように、思わず口元を押さえるような仕草をする。




少しだけ首を傾げるようにしながら、
エドがこちらを見た。


まだ幼さが残りながらも、
その横顔は諦めを知ったようにどこか大人びていて。
一瞬見せたいつもとは違う眼差しに、
ロイは少し戸惑いを覚える。



「鋼の・・・」




そしてその戸惑いを打ち消すように、
エドはいつものように笑った。



「そんなに何度も呼ばなくったって、聞こえてるよ」

「俺は大佐と違って若いから、耳は遠くないからなー」
間を置いて、ニヤリと笑う。




一瞬あっけにとられたような顔をして、
ロイは苦笑いを浮かべた。


「少しは、元気になったのかな」
ロイの言葉にエドは一瞬言葉を詰まらせ、
それから照れたような笑みで
「・・・ああ」
とだけ呟いた。










痛い。



これは誰の痛みだろう。
流れ込んでくる、この痛みは。





痛い。
痛い。



痛い。




けれど、これは自分の痛みとは違う気がする。

忘れようとしていたはずの傷の上に
かすめるように何かがふれる。




それが、紅い紅い足跡を残す。



痛い。



これは私の痛みではないのに、
私の痛みに、何と酷似していることだろう。





その痛みの、
何と悲しいことだろう。











「もう、帰るのか」


靴を履くエドの傍らに立って、
その背中に声をかける。


「昨晩はあんなに熱があったんだ。
帰るのは雨が止んでからにしたらどうだね」
心配そうに眉をひそめる。



そんな彼に、立ち上がってつま先をトントンとしながら、
「大丈夫。・・・アルも心配してると思うしさ」
そう言ってエドは笑った。




ロイの手からコートを受け取る。
乾かしてもらったはずなのに、
その感触はどこか冷たい。
軽く身震いして、それを羽織る。


玄関のドアに手をかけ・・・、
その手が止まる。




「大佐」

「・・・何かね」






「ありがとう」





振り向かず、一言一言噛みしめるように呟いたエドの赤いコートの背を、
ロイは思いつめるように黙って見つめた。











痛い。



あぁ。


これは君の痛みなのか。






紅い紅い。


朱に染まっていく。











ロイは腕を伸ばした。

その手が、エドの右腕を掴む。



驚いて振り向いたその体を、
有無を言わせず抱き寄せた。
抱きしめるその力の強さに、エドは戸惑う。


「大佐・・・苦し・・・っ」

息が詰まる。
非難するように声を吐き出し、
両手でロイの体を引き離そうとするが、
敵わない。
諦めて体の力を抜く。
耳にかかるロイの吐息がこそばゆい。



「鋼の」

「・・・なんだよ」


心地よく響く低音が、
抱きしめられた体を通して響く。


押し付けた耳から、鼓動が聞こえる。
心なし、その鼓動が速く感じるのは気のせいだろうか。




暖かい。

人の体温を知らないわけではないのに、
この暖かさを不思議に感じてしまう。


他のどの暖かさとも違って。
この人にこうされると切なくなる。





どうしてか分からないけれど、
胸が痛くなる。










「私は・・・」

ロイが短く息を吐き出した。
吐息と共に、囁く。
ただ、一言。




「君を、守りたいんだ」








時が、止まったような気がした。

否、止まってしまえと思ったのは、願ったのは。
この心かもしれないけれど。



「大佐・・・」


もう一度、両手でロイの胸を押す。
さっきまでの力が嘘のように、
互いの体はすっと離れた。



「俺は・・・俺は、自分のことぐらい守れるよ」
戸惑ったように言うと、
ロイはいつもの思慮深げな眼差しを微かに眇めて頷いた。
「知っている、君の強さは」
「じゃぁ・・・」
守ってもらう必要はないよ、と言いかけて、
それは途中で遮られる。



「君が守れないものを、私は守りたい」

「俺が・・・守れないもの?」
困惑して呟くエドを見つめて、ロイは再び頷いた。



「そう」


今まで見たことのないような、
優しい表情で。







「例えば、君の心を」











エドは何も言わなかった。

何も言わず、ロイの腕に軽くふれた。
しばらくそのまま立ち尽くして、
思い出したように言葉を紡ぎだす。



一言、一言。
まるで、刻むように。






「蒼・・・」

「大佐は焔を使うけど、本当はこの軍服の・・・蒼が一番似合う。」


俯けていた顔を上げる。
ロイの視線を真っ直ぐ受け止める。



「好きだよ、大佐の蒼」

「優しい色だ」


そうして、そう言った自分自身に困惑するように、
微かに笑った。











雨の中、足早に帰途につく君の背を見送る。
雨で霞んだ風景が、
元々そうであったかのように錯覚させ、
その中へ君を飲み込んでいく。



だから、雨は嫌いなのだ。
何もかもを、この手から奪っていってしまう気がする。
全てを霞ませてしまうような気がする。




「エド・・・」




腕組みをして、扉に寄りかかる。
見上げた空は、白く遠く。



目を伏せて、
ただ雨音に体を預ける。


彼を、思いながら。











君は強い。

恐れず、前だけを見続ける強さは、
なかなか得られないものだ。




けれどその心の、
何と繊細で脆いことだろう。
その痛みの、
何と深いことだろうか。



朱に染まった傷は、
パックリと割れ、
今も紅を溢れさせているのだろうか。



痛い。


君の心が軋む音が聞こえる。



忘れることすらできず、
ただ痛みに堪えるばかりの君。



君が流す紅を、
私はただ、受け止めようと思う。



それが、忘れかけた自らの傷を
再び抉ることになるとしても。







痛い。

痛い。





だけど。

もう、君だけに背負わせはしない。








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