雨の降る夜に
-Alphonse side-









空が泣いている。


夜の帳に染込むように。


そこに在るもの全て霞ませて。
空は泣いている。





いつからだろうか。
世界に感触を感じなくなったのは。


触れる物も、
聞こえる音も、
この目に映る景色も。


それら全てがまるで鏡に映る無機質さそのものに見えてくる。


心はどこにおいてきてしまったのか。
本当の心は今どこにいるのか。


兄さんの笑顔でさえ、
遠い思い出のような気がする。





僕は、まだ生きているのだろうか。


僕はまだ、ちゃんと笑えているのだろうか。










「雨、なかなか止まないな」
その言葉に僕は、黙って俯けていた顔をあげた。
ほとんど無意識に窓の外を見る。


雨はもう一週間も降り続いていた。
山あいの小さな町の小さな宿に、
僕らは長雨に半ば閉じ込められるような形で
滞在を続けていた。

空は一日中、まるで蓋をしてしまったような暗さと重さで。
枯れてしまうのではないかと思えるくらいに、
雨は窓から見える全ての風景を濡らしていた。


「まるで季節はずれの梅雨だね」
僕の言葉に、兄さんはベッドに無造作に体を投げ出して、
目を閉じた。
「雨は体が痛むんだよなぁ」
そう言いながらまいったまいったという表情で、
右肩をさする。
「大丈夫、兄さん?」
「んー、まぁな」
器用に片目だけ開けて笑うその顔に
何故か安堵しつつ、また窓に顔を向ける。
「もう夜も遅いし、寝た方がいいよ」
返事の代わりに、兄さんの機械鎧が軋む音が聞こえた。





雨は降り止む様子はない。
どこか悲しい音だけが薄いガラスの窓を叩き続ける。

どんなに目を凝らしてみても、
その先にはただ闇が広がるばかりで。
何も、見えない。





質素な木の壁にかけられた時計が、静かに時を刻む。
秒針と雨音と兄さんの寝息とが絡み合い、
その音のみが、この空間の時を動かしている。

僕は隣のベッドで、ただ朝がくるのを待ち続けながら天井を見つめていた。
・・・いつもそうしているように。
うるさいくらいに雨音が体に響き、
ふと、呼吸器さえない体に何故か息苦しさを感じる。
体を起こすと、無防備な表情で仰向けに横たわる兄さんの姿が目に映った。


「・・・またお腹出して寝てる」
よほど疲れを蓄積しながら日々すごしているのだろう。
深い眠りに沈んでいるのが分かる。
僕は兄さんの足元の毛布を胸元まで引き上げて
・・・無意識にその手が止まる。


静かに上下する胸。
薄く開いた唇から洩れる深い息。
ベッドのサイドライトの薄明かりを受けて、
青白く浮かび上がる、細い首すじ。

死んだように眠っているけれど、
それらすべてが、兄さんが確かに生きていることを証明する。



すべて、僕にはない物。


手から、毛布が落ちる。
その手で、自身の胸の辺りにふれた。
そしてもしこの体が人間であったなら、
唇があるであろう場所にふれる。
そのまま鎧と兜の繋ぎ目に。
ふれる度に微かな金属音が、
雨音に混じって部屋に響いた。



僕は、人間じゃない。



兄さんが絶えず吸う空気。
絶えず吐き出す空気。

僕の体には、ただ空気の塊が吹き抜けるだけだ。
兄さんは雨の日に、機械鎧の腕と脚が痛む。
でも僕には、その痛みが分からない。



痛いというのはどんなものだった?
この胸の痛みよりも、苦しいものだったろうか。


目の前で何度も、手のひらを握っては開く。
灰色の、鉄の塊。
それが、僕だ。



僕は、人間じゃない。


聞こえない音が、聞こえたような気がした。
何度も押し殺すように潰してきたものが、
首をもたげた音かもしれない。



体を、ひゅぅっと物悲しい声で、
すきま風が通り抜けた。
それは悲鳴にも似て聞こえて。


でもそれは、人の奏でる音ではなく。



「・・・・・・っはぁ・・・」
気づくと僕の手は、
兄さんの首を締めあげていた。


抑えきれない想いが渦となり奔流となって、
心の淵からあふれ出す。

憎悪に近い感情で、
僕は一層手に力を込めた。



そうすれば、
僕は僕にないものに嘆くことはもうなくなるのだと。
もう、のた打ち回るような痛みに
泣くことはなくなるのだと。




雨が激しくなる。
バラバラと窓を打つ。



キシ・・・と、兄さんの機械鎧がすれた音をたてた。
雨音にかき消される、そのほんの僅かな空気の振動が
僕の心の深いところへ響いた。



「・・・・・・・・・」
腕から力が抜ける。


兄さんが目を伏せたまま、咳き込む。
睫毛が震えた。



「僕は・・・何を・・・・・・」


僕は、今何をしようとした?
何をしていた?


何を・・・何を・・・何を・・・何を。





部屋の静けさと、自分自身への恐怖に堪えられず、
僕は部屋を飛び出した。







空が泣いている。
今日も泣いている。
明日も泣くのだろうか。



雨の中、僕は天に腕を差し伸べる。



誰でもいい。
神でも
悪魔でも。
誰でもいい。


僕を連れて行ってくれ。
僕を、ここから消してくれ。



叩きつける雨は、
そんな僕をより深い溝に引きずりこむかのようで。
僕をますます空から引き離す。


前のめりに倒れ、膝をついた。
冷たさも痛みも不快感も感じない。


泥にめり込む指を見つめて、
僕はただ、叫んだ。





空は、泣き止まない。






兄さん。
僕はどうすればいいかな・・・。




・・・僕は。


僕はこんなにも、
絶望に汚れてしまった。